天国へ行く為に。

全ての人間は生まれながらに持った病を治療するために生きている。

死んだ人間は喜ばないし悲しまない。

葬儀というのは、やる意味があるのかあまりわからない。

 

まず、なんであんなに悲しみを誘うような演出をするのか。

 

儀式は区切りをつけ、前に進むためのものとはいうが、むしろ儀式のせいでダメージを受けている気がする。

前向きならもっと前向きな葬り方があるのではないか?

 

 

次に、死んだあとでいきなり悔やむってのも筋が通らない。
それなら生きている間にもっと色々できたはずだ。
正直、僕は祖父と祖母に孝行なんてしていなかった。そんな僕が死んだあとでいきなり偲ぶなんてのも虫のいい話じゃあないか。

 

仮に祖父、祖母がこの先10年生きていたとして、どれだけの時間会ったというのだろう。会ったとて、うちどれほどが自発的に会いに行ったものだろう。
今とそう変わらなかったのではないだろうか。なのに死んで偲ぶのか?なんて欺瞞だ。

 

知っている人の死体をわざわざ見たくない。
次の祖母の葬式は出たくない。葬式でお別れしなきゃ悲しむなんて、だったらお別れする前に会えばいいだろう。

 

僕は当たり前のことだと思ってるのだが、死ねば意識なんてない。そうだろう?

死んでからも話せば伝わるっていう考えをなぜみんな持てるんだ?それはただの自己満足に過ぎないか?


つまりやるべきことの先送りにほかならなくないか…?

 

 

死んだ人間は喜ばないし悲しまない。

感情があるのは生者だけだ。

 

 

それをなぜか勘違いしているから、生きている間に大事なことを伝えない。

物事はシンプルに考えるべきだ。唯物主義の思考こそが的確な行動を作り出す。

 

 

「常々… 逆だと思っていたんだ…
通夜のことさ
死んでからみんなにワラワラワラワラ集まってもらったって 死んだ当人には何が何やらわからぬ
せっかく集まってもらうなら 死ぬ前だ……!
死ぬ前に会い… 話があるなら… 話しておくべきだ……!」
「天 天和通りの快男児」 赤木しげる

 

仮に、死ぬ前に会って話したとて、僕は故人の喜ぶような話はできなかっただろう。
なぜなら大抵の大人は社会的価値を最重要視するからだ。正社員で働いてるとか、婚約したとか。

僕にはそういう浮いた話が何一つない。
話せばむしろ失望させるだけだったろう。

 

そうなると僕のできる孝行とは、もはや嘘しかない。
「正社員でバリバリ稼いでるよ!」
「この前旅行に行ってきてさ!」
「すっごく可愛い彼女がいてさ!今度結婚するんだ!」

ああ、もう、想像しただけで情けなくなってくる。

僕は僕の生きたいように生きているが、それによって親や祖父母を喜ばせることはできない。

 

…いや、そもそも行きたいとおりに生きていけてもないのかもしれない。

 

こんだけ葬儀ディスっておいて、前まで葬儀屋で働こうと思ってたなんて、笑わせる。

 

 

 

家族の中では最も不孝者になるかもしれない。儒学(特に孟子)の教え的には最悪である。

悪いとは思う。すまないとも思っている。

 

しかしそれでも、謝りたくはない。

謝る気持ちで自分の道を優先したくはない。

 

そこは毅い気持ちで僕の意志を優先する。

もちろん、余裕があれば周りにも目を向ける。

できることなら周りを皆幸せにできれば最善だろう。

 

 

それでもやっぱり。

行きたいように行かせてくれ。

生きたいように生かせてくれ。

逝きたいように逝かせてくれ。

 

それがきっと、すべての人の願いだろう。